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道央自動車道白老インター近くにあります。蝦夷地の警備を任された大藩仙台藩の陣屋跡で陣屋跡の隣にこの資料館があります。ここは警備にあたったその仙台藩士たちの生活ぶりなど垣間見られ、貴重な資料等も展示されいるので、幕末の北海道の様子を学ぶ事が出来ます。VTR等もあるのでわかりやすく学べます。ここに来れば何故仙台市と白老町が姉妹都市なのかもわかると思います。一度は行く価値のある所です。
爺ライダー
江戸時代・・・蝦夷地と呼ばれた北海道には「武田信玄公」を祖先に持つ「松前藩」が道南に有った・・・。ペリーが黒船を率いて日本に来た頃・・・時を同じくしてロシアも海外交易を目的に、北海道(当時の蝦夷)近海に度々現れるようになり、危機感を感じた江戸幕府は「蝦夷地警備」として、蝦夷地に近い東北(みちのく)の6藩に依頼した。 余計な事だが・・・ペリー艦隊は「大砲を撃ち、腕ずくで開国」を迫ったのに対し、ロシアは「この地では、交渉は出来ないので、下関に・・・」と言う言葉に従い、翌年の交渉になった為に、アメリカに後れを取ってしまったようだが・・・取り様によっては「紳士」とも言える。「幕末」とは後で言われた言い方だが、どの藩も経済的には、行き詰っている中での「出張命令」みたいなモノで、各藩は苦労したようだ・・・特にその中でも一番大きな藩「仙台藩」は、概ね北海道の南半分と、今で言う北方4島も警備範囲で、その拠点として築いたのが「白老陣屋」だったようだ・・・機械力のない中、仙台から1~2ケ月も掛けて歩いて行って造った出張所?と言っても、立派な城構えで、2年ほどで造り上げたとは思えないほどである。警備も広範囲で、白老の他にも何箇所か「陣屋」を設けたようだが、今は基礎石がわずかに残るのみ・・・悪口ではないが、松前藩は先住民のアイヌの人たちに対し、対等な取引を行わなかったのに対し、仙台藩は「共存」を目指して、対等な交流を行ったようで、アイヌの皆様にも受け入れてもらっていたようだが、時は大きく変わろうとしていた「幕末」・・・言わば国策で行われた北方警備も薩摩・長州・土佐の各藩主導による戊辰戦争へと移り、情報が遅れていた白老は、残念ながら敗北の衆となってしまい、逃げるようにその地を追われ・・・小樽より海路、仙台まで戻ったようだ・・・この様な事から、仙台藩としても自慢できる歴史とは言えず、かろうじてその後、明治時代となり仙台藩からは「白石」「亘理」などから移住をした方々が、今の北海道の札幌白石区や登別市・伊達市等々の基礎を築いたのも、幕末のここ「仙台陣屋」が少なからずとも、アイヌも皆様とも共存していた事が足がかりになったのは、間違いない事だと思う。 しかし、同じアイヌの方々の中にも「白老のアイヌは、教えに背いた!」との見方が当時からあり、今に至っているとの事で・・・心苦しい・・・それは、アイヌの教えとは自然との共存で総ての物は神からの授かりもので、生活に必要な最小限度の狩りを重んじていたのだが、白老では遡上する鮭等を、和人と言われた仙台藩と、貿易をして金品と交換して居た事が、その原因かと思われる・・・。我が先祖一族も、苦労したようで・・・おいらは、毎年「北海道の旅」は白老陣屋に始まり、白老・ポロトコタンで終えるように、計画しているんです・・・。白老陣屋の近くには、「塩釜神社」「愛宕神社」「仙台藩士と関係者の墓」なども有り、本当は広く・・・あの時代の大きな変化の中で、苦労した方々を、思いやっていただく機会が有れば・・・と、願ってやみません。最後になりますが・・・白老の皆様方には、今でもそれら総ての関係場所の除草や、清掃、整備を行って頂いている様でして・・・感謝いたしております。
toshi-104-toshi
屯田兵等明治以降の北海道開拓史はよく知られているが、それ以前の北海道における歴史はあまり語られない。日本の歴史を知り、自分の国を知るためには一度訪れるといいと思います。北海道になぜ伊達市があるのかがわかると思います。